というか、答えず有耶無耶にして哲学をぶるのが高尚な嗜みとして罷り通っている風潮が気に食わない。
なら私が答えましょう。
但し一度答えを知ってしまったらもう知らない状態には後戻り出来ないし残りの人生を詰まらなくするかもしれません。
そして其のトラウマを癒すには私の答えを一つの説として切り分け否定し続け、元の知らない状態に近接する様に軌道修正を掛ける事です。
では・・・
“愛”とは、空気を媒介とした音情報や電磁波を媒介とした色情報の様に同時且つ半無限的にシェアする性質を兼ね備えた何等かの感覚情報である。
そして其の何等かとは本能に根付いた記憶“種の親近感”であると私は考える。
従って少なくとも一定の知能を持つ哺乳動物であれば愛は持っていると考える。
つまり「愛は情報」なので元々共有出来る性質を持っており、又愛という単語の前後に別の言葉をくっ付け「友愛」とか「愛情」「愛着」等とする事で一定のベクトル(指向性)を持たせる事が出来ます。
例えば「無償の愛」等という物は犬や猫であっても寧ろ当然な事であり、其の様な観念や価値観は人間独特のエゴによる相対的な認知であると。
即ち人間の知能の高さ故に利害が絡み生み出された物であり、元来無償である愛を人為的に有償化してると考える。
そして愛はそうした人間によって突っ突き捏ね繰り回し話をややこしくする事で、文学や芸術等の人間文化を形成する永遠のネタとして再生産されて来た。
だから自分にとっては愛という感覚の情報学より科学の方が大枠且つ未知で一分一秒前進する分、知的好奇心がそそられ興味が絶えない理由なのではないかと思う。
しかし其の多くの人々は愛が科学の一部であり情報の一部であり性感覚情報と一線画す事を知らず情報を混同交錯する事によって、そうした分別の付く分解能の高い知的労働者達に操り振り回され快感を覚え魅了される。
どうです?
簡単でしょ??
こう話すと分別の付かない人は「あなたは本当の愛を知らない」とか言う人も居られるでしょう。
勿論、愛は感じ取る物なので、感じ取る事が知る事であるならば私は其の感覚に劣っているかもしれませんね。
即ち「頭で分かっているだけ」と云う奴です。
然し乍ら私は愛に愛欲という言葉が在る様に、情報の欲求故に中毒性を孕む危険性を有する事も存じております。
従って「あんたは愛に呑み込まれた中毒者だよ」とほざくかもしれませんw













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